罰則条項 火照った身体は静まらない。 情事の後には心地よい眠りが訪れるなんて大嘘だと、響也はギュッと唇を噛み締めた。身体だけではなく心ですら預ける事が出来る相手となら、こんな倦怠感ですら共有して眠りに堕ちていけるのかもしれない。 (逢ってはいけませんよ。という兄のいいつけを守らなかったせいかもしれない) そんな事を想い、ベッドに投げ出していた右腕をズルズルと顔に引き戻して瞼を覆った。 ふいに泣きたくなる。 目頭が熱くなり、鼻の奥がツンとしてくれば、情けなさに拍車がかかった。 成歩堂から切り出される話が恐かった。 向き合わなければならない相手を前にして、逃げる事しか出来なかった。これが国民的スターともてはやされ、天才検事と一目置かれた人間のやることだろうか。 それでも、二度と近付くなとでも言われたら平気でいられる自信は無かった。 好きなのだ。それも、遠くて見つめて居られればいいなどと言う感情ではなく、彼が必要なのだ。 身体だけの関係で良いと割り切れるものだったのなら良かったのに。そうすれば、成歩堂の気まぐれに振り回される事も無かったし、性欲を解放した爽快感だけでこんな思考に囚われる事だって無かった。同じ事をそう無限ループの様に考えている自分は、割り切るという言葉もその意味もすっかりと忘れ果ててしまったようだった。 コツコツと刻んでいく時計の針が耳に響く。こうして灯りを消し、ベッドに横になってからもどれほど時間が経ったのだろうか…。 ズルリと腕を落として、視線をそちらへ向ければベッドサイドに置いた時計が薄緑の淡い光を放っている。蛍光塗料に照らされていたのは時計だけではない。 使い慣れた携帯電話。その横には薬瓶も薄緑色に光っている。 兄から薦められた睡眠薬の瓶。彼の私物らしい、薬局の店頭では滅多に見る事の出来ない高級品。 数日前から睡眠不足も限界に近く、試してみようかとベッドルームに持っては来たものの未だに手が伸びずにいた。薬を使って無理矢理に眠るという方法自体が、酷く不健康なものに感じられて、飲むのを躊躇ってしまうのだ。 けれど、今夜はそんな考えを払拭するほど眠りが欲しかった。 連日の睡眠不足はたしかな問題ではあったが、そんな事よりもこの思考を止めてしまいたかったのだ。 成歩堂を想う、どうにもならない心を身体から切り離してしまいたかった。 身体を起こして、瓶を掴む。 神経質であった兄は弟の家に泊まる時でさえも、枕が替わって寝付けないとの理由でこの薬を服用していた。響也自身は当時は全く興味もなく、なんて不自由な事だと思っていたし、自分が手を伸ばす事があるなどと思ってもいなかったが。 滑らかに回る蓋を開けて中を覗き込むと、中身は半分程度になっている。 ふっと苦笑する。 ふたりとも成人を越えたにも係わらず、こんなに頻繁に兄は此処を訪れていたのかと、そんな感慨にも似た感情が浮かぶ。心配してくれているだろう兄よりも、自分の心はどうしようもない男に引き寄せられているというのに。 再び囚われようとした想いに頭を振り、響也はザラリと手の中に落ちて来た錠剤をつまんだ。舌に乗せると、軽く痺れる苦さがある。 水で飲めば良かったと後悔したが、口に入れてしまったものを吐き出す訳にもいかず、瓶をテーブルに戻してベッドに俯せになる。 目を閉じて暫く我慢してはみたものの、やはりピリピリとした痛みが舌を刺す。それでも、喉から体内に入った薬のせいか、ゆるゆると意識が遠くなって来た。 …ああ、これで…。 安堵の気持ちは、ふいに鳴り出した携帯で遮断された。意識も一瞬でクリアに戻る。忌ましましさも手伝って、乱暴に携帯をひっ掴み、闇に光るディスプレイを凝視する。 「…?」 全く見覚えのない番号だったが、文句のひとつでも言ってやろうと着信ボタンに指を掛けた。相手の声など聞かずに、声を張る。 「アンタ! 誰だか知らないけど、こんな夜中…!『…ああ、響也くん』」 深い男の声に息を飲む。 「…成歩堂…。」 『声、聞きたくてね。』 (どうして自分の番号を)とか、(時間を考えろ非常識だろう)とか告げる事柄はあったはずなのに、嬉しいと素直に想う自分がいる。強制的に睡眠に移行させられているせいなのか、余計な思考は浮かばない。 「……僕も、聞きたかった。」 言葉に躊躇いもなかった。きっと正気にも戻ったら悶絶しそうになるだろうなんて、頭の隅っこで思う。 『嬉しいよ。』 一瞬驚いたように息を飲むのがわかる。 成歩堂は何処にいるのだろう。もし、行ける場所ならば、今すぐにでも逢いに行きたい。けれど、もう身体は座っている事さえ、出来なくなっていた。 「…どこ…?」 『うん、外かな。』 ずっと隠していた言葉を、ただ告げたい。成歩堂の心地よい声が耳から全身を包んでいくから、もう隠す必要なんかないよね。 「…き、だ…よ。」 手から零れた携帯が床に落ちて跳ね返るのが見えた。 『…響也くん、どうかしたの? 響也くん!?』 大丈夫。 ただ酷く眠くて、身体が痺れてて思うように動かないだけなんだ。 声を荒くする成歩堂に、そう告げてやりたかったけれど、それでも沈んでいく意識には逆らえずに、響也は意識を手放した。 自分はとんでもない事をやらかしていたんだと成歩堂は悟った。 考えるに、自分はどれほど周囲の人間を心配させてきたのだろう。極寒の地で川に飛び込んだ時も、フラフラ夜中に街を徘徊して事故に逢った時も。 きっと親しかった人間は皆、言葉に出来ないほど心配していたはずだ。(平気、平気)とへらへら笑った自分が怒鳴られたのも、こうして見れば当たり前だ。 身体が震えた。胃の詰まった内臓が鷲掴みにされてギュッと抑えつけられているようだった。考えれば、考えるほど嫌な想像ばかりが浮かべば、喉の奥から酸っぱい液体が出てくるような気さえした。 心配で心配で、なのにどうしようもなくて。親友を失ったと思った時の憤りとは違う重たい何かで縛り付けられている気分だった。 「成、歩堂、龍一…?」 やっと開いた瞼に自分が映り、やっと開いた唇が名を呼んだ。 「夢…なのかい?」 「生憎と現実だ。」 何が起こったのか理解出来ない様子で、ゆっくりと頭を巡らす響也を成歩堂はジッと見つめた。 「…現実だったら、なんでアンタが僕の…。」 そう言葉を続けて、響也は改めて周囲を見回し(自宅)ではない事に気付いた様子だった。目を見開いて成歩堂を見つめる。 一応は個室だ。 綺麗とは言い難い白茶の壁。成歩堂の背にある、廊下に通じる扉とベッドを隔てているカーテンも清潔感はあるのだが、素材はくだびれていた。悪い言い方をすれば、小汚いかもしれない。 ついさっきまで、処置に使用されていた器具は部屋の角に片付けられ、響也が横になっているベッドの周囲にあるものと言えば成歩堂が座っている椅子だけだ。 「此処は、僕が懇意にしてる病院。」 答えが必要かと先回りをした成歩堂に、響也は先程以上に混乱したらしかった。片手で目を覆い、もう片方の手を成歩堂に向けて突き出すと軽く左右に振る。 「待っ、待ってよ。何で、病院? 俺が、なんで?」 俺、なんて言うんだ。自分の事。 奇妙な感心で黙り込んだ成歩堂は、こちらを睨んでいる相手に慌てて愛想笑いを浮かべた。 「様子が変だったし、あれっきり君と連絡が取れないから、家に行ったんだ。管理人さんに開けて貰って入ったけど、眠っていた君を見て肝を冷やしたよ。」 息していないように思えたから。 そう呟いて、ほっと口端を緩くする。 「…僕はただ…眠れなくて睡眠薬を飲んだ、それだけだ。」 非常識な時間にとか何でプライベートな携帯を知ってるんだとか、告げてくる苦情にうんうんと成歩堂は頷く。 疲労もあったのだろうし、飲み慣れない睡眠導入剤は、響也には効きすぎたのかもしれない。酷い勘違いだったと、苦笑いをしてみせることも出来たのは、今こうして響也が目を開けて、自分を見ていてくれるからだ。 自然と成歩堂の口から安堵の吐息が漏れる。 「それでも、死んでるみたいに思えたからね。そりゃあ、慌てたさ。」 困った様子で笑えば、響也はきまりが悪そうに眉間に皺をよせる。 師匠の遺体を発見した過去を成歩堂が持つ事。或いは響也は知っていたのかもしれない。それ以上、悪辣な台詞を告げるでもなく謝罪と感謝の言葉を口にした。 「…迷惑、かけたみたいだね。」 「構わないよ。でも、目を覚ましてくれて安心した。」 心底安堵の表情を浮かべた成歩堂に、響也は少しだけ青かった顔を紅潮させた。無防備な表情が可愛いと思えたのも束の間、気付けば響也は表情をきつくしていた。 「アンタの誤解だったのなら、もう帰ってもいいね?」 シーツをギュッと握りしめ睨み上げる瞳に向けて、成歩堂は皮肉げに口端を引き上げた。 「駄目だよ。」 ベッドに手を置けば、ギシリと軋んだ。 ギョッとした表情で響也が成歩堂を見つめる。しかし、躊躇う事なく成歩堂は手に体重を掛けて、膝を乗せた。男ふたりの体重が掛かれば、安価なベッドのスプリングなど面白い程に潰れて、悲鳴を上げた。 「何…を…。」 慌てて身体を起こして後ずさるものの、響也の背は直ぐにベッドの柵に背が行き着いた。逃げ場はないと気付き、近付いてくる成歩堂を睨み付けて伸ばさされた腕を弾く。 「こんな…何考えてんだよ、アンタ! 人を呼ぶぞ…!」 しかし、ナースコールを探る腕を容易くベッドに抑えつけられれば、途端脅えた表情に変わった。 触れ合った部分から成歩堂のぬくもりが伝わってくる。欲しいと望んでいた、確かな暖かさがそこにあり、焦がれていた人間が目の前にいる。 けれども覆い被さってくる成歩堂に触れる事に、響也は脅えた。視線を逸らし、唇を引き結んで逃れようと身を捩った。 「離せ…!「…君は、あの時好きだと言った。」」 凛とした成歩堂の言葉に、響也はびくり、とその身を震わせて硬直する。 「どうして言ってくれないんだ? …僕を望んでいるって、求めているって。」 自分を見つめる成歩堂の瞼。その奥からこみあげてくる感情が、響也の息を止めさせる。求められている。望まれている、この男から。 思わず伸びた指先は歓喜の為だったけれど、直ぐに強ばった。 そんなはずはない。 この男の優しさと情愛を一緒にしてはならない。此処で好きだと告げれば、自分の望み通り、成歩堂は溺れさせてくれるだろう。それこそ、趣向を凝らした喜びを与えてくれるかもしれない。 けれど、一時のそれに溺れたく無かった。自分がこの男に欲しているものは、欲望の処理じゃない。成歩堂龍一という人間、肉体、感情、彼を包む全てのモノ。環境、人、それこそ全てが欲しくて、愛おしい。 でも、そこから彼を奪いたいとも望んでいて、お嬢ちゃんやおデコくんすら邪魔に思える日が来るだろう。成歩堂を失わない為に何をしてもいいと感じる醜さは、自分の中にある。 成歩堂は、最初からこの醜く浅ましい自分を見通していたのかもしれない。ふいにそう思えた。 そう、嫌いという言葉で、彼は伝えていたのではないのか? 「…嫌われている僕に、そんな資格、ないんだろ?」 なんとか紡いだ言い訳は細く苦しい声になって、ただ情けなかった。 成歩堂の表情がゆるゆると歪む。一度目を閉じ、そして開き…。 「もう、いい…!」 声の勢いと共に、成歩堂は響也の身体をベッドへと押しつけていた。 強張る両腕を響也の頭のわきで手首をつかんで押さえつけ、覆い被さる。 「何が…、いいん…だ! 僕はっ!!」 悲鳴に近い叫びを制したのは、かすかに触れただけの接吻けだった。言葉を失い、見開かれた響也の瞳に、静かな成歩堂の声が降り注がれる。 「………ねぇ、響也くん。僕は弁護士の“資格”を失った。」 成歩堂が言い放った言葉は、響也の耳に死刑宣告のように響いた。呼吸に胸が詰まり、身体は震えた。 やはり、そうなのだ。「だ、ったら…。」 「でも、想いや願いは変わらなかった。資格なんて言葉に本当は意味などないだろ?気持ちを誤魔化す事など出来はしない。」 拘束を外し、無骨な成歩堂の指先が響也の頬を滑る。 「温もりをあげたいし、大切にしたい。笑っていて欲しい喜ぶ顔が見たい。自信満々で法廷に立つ君を見たいし、観衆を湧かせる歌を謳うガリュウも嫌いじゃない。 それと、同じ、それ以上に、泣き叫ばせたい、僕しか見えなくなるようにグチャグチャにしたい。自信なんて根こそぎ折れる位、完膚無きまでに叩きのめして跪かせたい。 ………僕はね、君を奪いたいんだ。」 好きとか嫌いとかじゃない。 「身体と心の両方を。すべてをつなぎとめ、からめとり、 この腕の中だけに閉じ込めてしまいたい。」 出来る、出来ないじゃなくて、それが望み。 (君は…?)と直接問われる事はないけれど、成歩堂の瞳は響也の応えを待っていた。同じ想いは、いつからふたりの中にあったのだろうか。 「僕は…ぼく、は…」 喉に、声が絡む。 「僕も…。」 目の奥が熱くなっていくのを留められず、涙が溢れてこぼれ落ちる。 言葉を繋ごうと、息を吸い込むけれども全て嗚咽に紛れて言葉にならない。何とか呼吸を整え、返そうとした応えはやはり告げる事は叶わなかった。 言葉は全て、成歩堂の接吻に消える。 「……ん…」 答えの変わりに、響也はそっと腕をのばす。背中に回した指先で、ギュッとパーカーを握った。互いに抱きしめあって、名を呼び合う。 今、確かなぬくもりはふたりだけのものだった。 「書類上がりました。」 廊下を歩く響也の姿を見つけた茜は、手にした茶封筒を差し出した。 「ありがとう、刑事くんは今日も可愛いね。」 持っていたファイルを脇に挟み込み、それを受け取る。 ニコリと笑った響也に、茜はあからさまに顔を歪めた。このジャラジャラ検事が…というさげすみのオーラが立ち上るのを興味深そうに眺めてから、響也は封筒を開いた。研究所の印が入った用紙に打ち込まれた数字に目を走らせる。指輪の填った指先で数枚の紙を捲っていく。 響也に興味はなかったが、封筒の中身には興味がある茜は、立ち去る事もなく 見つめている。研究所の名前が科学捜査好きの茜をそそるのだ。 なに?と聞けば、別にという素直ではない返事がかえった。それが可笑しくて、響也は笑みを浮かべた。 「あの、それ、どの案件の書類でしたっけ?」 「ああこれかい? どれって事はないけど、気になったからね。うん、納得したよ。刑事くんも見るかい?」 「いえ、結構。」 ぴらりと目の前で翳されれば、茜は逆に興味を失ったようだった。立ち去ろうとした背中に響也が声を掛ける。 「ああ、刑事くん。今日成歩堂さんがお茶に来ませんかだって。確かに、伝えたよ。」 不機嫌そうに振り返った茜の顔が、話しを聞いた途端に輝き頬を紅潮させた。 「成歩堂さんが!?」 「うん。」 笑みを崩さない響也の口角が上がる。慌てて咳払いをしてから、茜は響也に礼を告げた。立ち去って行く彼女はすでにスキップになっている。 「全く…なんだかんだで、あの人はモテるよね。」 ふんと不機嫌そうに告げ、響也は書類に目を戻す。 薬品に使われていた成分が、事細かに打ち出されている。兄ほど詳しくはないものの、それなりの知識が響也にはあり、記載された成分がどんな効果をもたらすのか推測する事など容易かった。 響也は笑みを崩さない。 「…アトロキニーネじゃないのは、やさしさだったのかな?」 書類に添付された写真の錠剤は、あの夜響也が口にしたものだった。 成歩堂が明言しなかったのは、彼なりの気遣いだったのか。それでも、不自然さに響也が気付かないはずがない。 睡眠導入剤の瓶に入った中味は、明らかにそれとは違う。霧人が自分のものだと置いていたものに、許可がなければ絶対に手を触れないとわかっていたのだ。 つまり、あの日成歩堂が気付いてくれなければ、自分は絶命していただろう。 けれど、響也は霧人を責める気持ちはまるでなかった。強い独占欲は狂気のように自分の中に存在している。 いつか、そういつか自分も、同じ道に踏み込むかもしれない。それが、血なのかもしれないけれど。 「…ごめんね、兄貴。堕ちる相手は自分で選ぶよ。」 シュレッダーに吸い込まれていく紙を見届けて、響也は変わらぬように見える日常に身を戻した。 〜Fin
ちょっとだけ後書き。 長いお話を読んで頂いてありがとうございました。 ただ、純粋に好きだけでないふたりを書いてみたくて書いてみました。 大人の男同士だし、なんていうか、こう共犯者(笑 最後に懺悔、エロとシリアスはやっぱり難しいです。力量の無さを切実に感じますが、楽しんでもらえれば何よりです。 content/ |